「野口の書斎の棚は洋書に充され、自分の読めない言葉にかづは敬意を抱いた。・・・知的なものが知的なものだけで成り立っている世界は彼女の理解の外にあった。・・・この人物だけには裏側がなくて、こちらに向けている面だけしかないように思われるかららしい。」
(三島由紀夫『宴のあと』)
序章 教養主義が輝いたとき
⚪︎ プチ教養主義者
1956年、「イノベーション」「新しい国造り」という言葉も使われ、地方の町の家にも蛍光灯がつき、裸電球はトイレや物置などに限られるようになった。一人当たり実質国民所得が戦前の最高水準にまで達した。もはや戦後ではない。
岩波書店発行の『世界』。例え読まなくとも、『世界』を定期的に購入し、本棚に並べていることがインテリの証だったかもしれない。
大学に入学すると同時に『世界』を定期購読して熱心に読むきっかけになった。プチ教養主義者の誕生である。
⚪︎ 夏休みと読書
昔の大学生は故郷や避暑地(高原や海岸)で書物を読んだり、高等文官(公務員)試験の勉強をするというのが正しい夏休みの過ごし方だった。閑静な田舎で、読書を含めてゆったりと過ごすことができたことは、なんとも贅沢な時間と経験だった。
⚪︎ 総合雑誌
大正時代や昭和初期は『中央公論』などの総合雑誌の時代だった。高校生や大学生の教養は、高校や大学の授業などの公式カリキュラムだけではなく、総合雑誌や単行本、つまりジャーナリズム市場を通じて得られていた。しかも、総合雑誌の論文のクオリティが学会誌などよりも高くさえあったといわれている。総合雑誌の論説は一般教養だけではなく、専門の学問の入り口にもなった。総合雑誌は、知識人の公共圏を形成する媒体であった。
1章 エリート学生文化のうねり
⚪︎ 新制高校的と旧制高校的
・旧制高校的
高橋和巳:旧制松江高校→新制京都大学文学部
旧制高校生活によって形成された固い殻の影が黒々と落ちている。
実践要素を欠きつつも、学問と自己とは統一されていた。
・新制高校的
大江健三郎:松山東高等学校→東京大学文化二類
戦後民主主義の日常性が刻む時の音が鈍く、ゆるく響き続けている。
⚪︎ 大正教養主義からマルクス主義へ
・大正教養主義
旧制高等学校を主な舞台として定着。
哲学・歴史・文学など人文学の読書を中心にした人格の感性を目指す態度。
・マルクス主義
帝大生が社会主義運動を始めたこと、帝国大学助教授が社会主義についての論文を書いたことは社会主義の威信を一挙に高めることになった。
社会主義は壮士あがりのならず者やごろつき集団の矯激な運動あるいは在野知識人の運動ではなく、知的青年の社会思想や社会運動に格上げされた。
知的青年の文化が大正教養主義からマルクス主義へ変化しはじめた。
⚪︎ 教養の不評判
大正時代の終わりには、最も頭の良い学生は「社会科学」つまりマルクス主義を、二番目の連中が「哲学宗教」を研究し、三番目のものが「文学」に走り、最下位に属するものが「反動学生」といわれた。昭和初期には、ジャーナリズム市場はマルクス主義者によって独占されているとか、左翼化すればするほど雑誌が売れるといわれるようになる。
⚪︎ 左傾主義
マルクス主義は、合理主義と実証主義を止揚した最新科学とみなされた。したがって、マルクス主義は教養主義の上級編とみなされさえした。学生の左傾化の動機そのものが読書人的教養主義的である。
⚪︎ 象徴的暴力空間
教養主義とは、万巻の書物を前にして教養を詰め込む預金的な志向・態度である。教養主義を内面化し、継承戦略をとればとるほど、より学識をつんだ者から行使される教養は、劣位感や未達成感、つまり跪拝をもたらす象徴的暴力として作用する。
⚪︎ 昭和教養主義の復活
1936年、思想犯保護観察法が成立し、マルクス主義が強制撤去されることにより教養主義が復活する。大正教養主義はマルクス主義を呼び、マルクス主義が弾圧されると再び、昭和教養主義が息を吹き返した。
2章 50年代キャンパス文化と石原慎太郎
⚪︎ 50年代半ばのキャンパス文化
1955年、石原慎太郎が「太陽の季節」を『文学界』に発表した。
この頃の京都大学教養部のアンケート結果では、10日に1冊は教養書を読んでいる。教養書の読書時間は1日1.8時間。93%の学生が教養書を読む時間がもっと欲しいと回答している。
⚪︎ 『灰色の教室』
石原慎太郎の処女作。『太陽の季節』は二作目。若者の赤裸々な欲望とエネルギーの奔流を生々しく描出している。
左翼文学の影響が濃厚なキャンパスでは、通俗小説として貶められる運命にあった。石原慎太郎自身、「私の観念左翼に対する生理的嫌悪感と軽蔑は、案外あの時造成されたものかもしれない。」という。
⚪︎ 教養主義への反乱
三島由紀夫は、「石原氏は全て知的なものに対する侮蔑の時代を開いた。」と言う。石原の侮蔑は、言説の背後にある教養知識人のハビトゥスへの違和感と憎悪である。
⚪︎ ハビトゥス
ここでいうハビトゥスは、態度や姿勢を意味するアリストテレスの概念「ヘクシス」をラテン語に翻訳したものである。社会学者ピエール・ブルデューはハビトゥスについて「生存のための諸条件のうちで或る特殊な集合に結びついた様々な条件づけがハビトゥスを生産する。」と。
社会的出自や教育などの客観的構造に規定された(構造化された構造)実践感覚であり、持続する性向の体系である。
「品がある」「田舎者だ」こうした心的習性がハビトゥスである。出身階級や出生地や学歴などの過去の体験によって身体化された生の形式である。
3章 帝大文学士
⚪︎ 読書と思索の奥の院
教養主義の奥の院に学ぶ帝大文学部生に焦点を合わせる。
教養主義とは、歴史、哲学、文学などの人文系の書籍の読書を中心とした人格主義である。
旧制高校で教養主義に深く傾倒したものほど、法学部や工学部などに進学しないで、文学部に進学した。
⚪︎ 進路と処遇
文科大学は就職率が極度に低い。
法科大学は行政官吏、司法官吏、弁護士はいうまでもなく、銀行員・会社員など進路がバラエティーに富んでいる。それに比べ、文科大学卒業生のほとんどの進路は学校職員である。
帝大文学士は、同期の帝大法学士や工学士の所得からみれば、経済的には恵まれなかった。
⚪︎ 矜持と屈折
文学部生の矜持は、自分達はパンのための学問をしているのではないという自負だった。文学部に進学することは、将来の大企業会社員や銀行員を諦めることだった。文学部という威信(象徴資本)によって経済資本の期待収益率の低さだけではなく、学歴資本の不足を補っていたのではないか。
⚪︎ 純粋文化界とマス文化界
・純粋文化界:純文学
生産者自身を顧客対象にし、経済的利益よりも象徴的価値を志向する。
科学のための科学や芸術のための芸術といったことを旨とする文化領域。
・マス文化界:大衆文学
非生産者である大衆を顧客にし商業的成功や人気に志向する。
文化財を象徴的価値としてよりも経済財としてみなす文化領域。
⚪︎ 虚弱な身体
虚弱な身体としての文学士という社会類型イメージは小説にもよく登場する。不健康や虚弱を文学青年の条件のようにさえ感じている。
日本の教養貴族の生産工場である帝国大学文学部は帝大の他学部に比べて「農村的」で「貧困」で「スポーツ嫌い」「不健康」という特徴が抽出された。
教養主義はハイカルチャーの模造や紛い物。これこそが石原の教養主義に対する生理的嫌悪の背後にある心理と論理ではなかったろうか。
4章 岩波書店という文化装置
⚪︎ 岩波ボーイと岩波女学生
文学部は教養の奥義である古典・正典を定義し、解釈する制度だったが、出版社は、そうした教養を普及し、社会的に伝達する制度である。
教養主義の別名は岩波文庫主義でもあった。
⚪︎ 岩波茂雄:岩波文庫の創始者
1881年(明治14年)8月、長野県諏訪郡中洲村の 農家の長男に生まれた。引きこもりもあり、2年続けて第一高等学校を落第し除名になる。東京帝大の選科生となり、哲学科倫理学専修を修了する。専科修了後、教育雑誌の編集の手伝いをした。1913年、古本屋岩波書店を開業する。
⚪︎ 岩波書店の進出
岩波書店が、出版業として成功し、岩波文化をなす契機となったのは、なんといっても漱石の『こころ』の自費出版によってである。その後、哲学叢書を刊行し、これが大いに売れ、「哲学書の岩波書店」というブランドを確立した。
出版業は昔も今も人脈産業である。岩波の出版業への進出は、社会関係資本によるものだ。
岩波茂雄は「一流の人物を嗅ぎだす直覚力」が鋭かったといわれる。岩波の「直覚力」は、一高や東京帝大の同窓人脈という関係のネットワークの中で培われ、磨かれたものだ。
⚪︎ 野間清治と講談社
野間清治は『雄弁』を刊行後、講談社を設立した。野間は『雄弁』が左傾化することを好まず、青年団員などの学歴ノン・エリートの雑誌となっていった。
野間は師範学校卒であり、岩波が一高中退、帝大選科修了生だったという所属集団の違いは、運用の仕方、つまり収益率に大きな差をもたらす。つまり、岩波文化ではなく、講談社文化にすることで成功した。
学歴貴族空間で煩悶青年の時代を過ごした岩波茂雄に庶民文化に標準を合わせた講談社は考えにくい。
⚪︎ 岩波のポジション効果
岩波が一高を中退し、東京帝大文化大学選科修了だということが大事である。学歴貴族の仲間でありながら、周辺(中退、選科)でもある。こうした境界人ポジションは、岩波と執筆者の間に了解圏と距離感の二重性をもたらした。
距離化によって、岩波の執筆者への配慮と尊敬心を豊なものにする。しかも了解圏にあることは、執筆者への配慮と尊敬心の文化内在性を保証する。
⚪︎ 自由党左派の雑誌
岩波的進歩的文化は最初から、「正統派」マルクス主義知識人である日本共産党系知識人と距離をおいていた。岩波書店を中心とした進歩的文化は、リベラリズムと「正統派」マルクス主義との間の微妙なバランスによっていた。
⚪︎ 正統化の相互依存
マス文化界(ジャーナリズム)と純粋文化界(アカデミズム)の中間領域である民間アカデミズムの位置を得たものである。
官学アカデミズムは自らの正当性を証明するために民間アカデミズムである岩波文化によりかかった。官学アカデミズムの業績は岩波書店での書籍刊行によって正典化した。
⚪︎ 知識を世界に求める
岩波茂雄は、先進国の知識を国内に配達することを重要な使命と考えた。岩波書店での翻訳書の割合は高く、ゲーテ、ロマン・ロランなどの翻訳が主流を占めた。
⚪︎ 学問ヒエラルキーの反復
岩波文化における欧米書籍の翻訳文化偏重は、官学アカデミズムの学問ヒエラルキーとも共振していた。
官学アカデミズムにおいては、欧米の学説研究が最も威信が高く、次が欧米の実証的研究の紹介で、日本社会についての実証研究は最も威信が低かった。
5章 文化戦略と覇権
⚪︎ 教養主義のどろ臭い生まれ故郷
教養主義の精髄は西欧文化志向であるが、刻苦勉励的農民的エートスに支えられたものだった。
何か自分はしんき臭い父母や縁者を去って全く自由な美しいコスモポリタンの世界で学芸にいそしんでいる感じになるのだった。
⚪︎ 教養主義と修養主義
教養主義は「修養主義」が内包していた人格主義をオリジンにしている。
修養とは、身を修め心を養うことである。克己や勤勉などによる人格の完成を道徳の中核とする精神・身体主義的な人格主義である。
⚪︎ 『若い人』
近代日本の教養主義文化が農村的エートスを底礎にしたものであり、都市文化、江戸や京の文化とは距離があった。
昭和戦前のベストセラー『若い人』は、石坂洋次郎が秋田県立横手中学校で教師をしていた時に『三田文学』に連載された小説である。函館にあるハイカラなミッション・スクールの高等女学校を舞台にしている。
教養主義のメッカである旧制高校や帝大では『若い人』が感銘本の上位に登場しない。一方、都市上層中流階級の子弟が多かった成城高校などの私立七年制高校だは、『若い人』は感銘本のトップであった。
⚪︎ 教養主義とブルジョア文化の懸隔
杉並、目黒、世田谷などを居住地とした「新」山の手階級が誕生すると、「旧」山の手階級の居住地は屋敷町として際立ち、上層中流階級文化として成熟する。学校的教養である教養主義では、こうした成熟したブルジョア文化に対抗できなくなる。
上流階級や都市中流階級の文化が成熟してくることによって、教養主義とブルジョア文化の隙間があらわになる。学歴エリートと上層中流階級との文化的隙間である。
⚪︎ 文化戦略としてのマルクス主義
マルクス主義的教養主義は、成熟した都市ブルジョア文化への対抗文化としての意味と機能を持つことになる。ブルジョア文化を超える文化が必要で、マルクス主義こそがそうした新しい文化となった。
マルクス主義は、教養主義以上に地方出身者インテリとの親縁性が高かった。
マルクス主義的教養主義というもう一つの西欧文化によって、ブルジョア文化を貶める
ことで、成熟した都市中流階級文化の上位に立つことができた。
⚪︎ 中間文化という大衆教育主義
人々は新中間層文化の不可欠な部分として教養主義(者)化した。戦後の教育拡大と新中間層の拡大によって、全集ブームや新書ブームが起こった。中間文化こそ戦後の大衆的教養主義だった。
大学生の身分文化こそ教養主義だった。戦後的教養主義が高等教育と新中間層の拡大に連動し、教養主義が大衆教養主義としてクライマックスを迎えた。
終章 アンティ・クライマックス
⚪︎ マス高等教育
学歴エリートたちの未来と学歴エリート文化である教養主義に軋みがでてきたのが、1960年代後半からである。
新規就職者に占める大卒者の割合も急上昇し、ピラミッド的な学歴別労働市場が崩壊しはじめる。大卒者のただのサラリーマン化が進行した。ただのサラリーマン予備軍には専門知や教養知を必要としない。
⚪︎ 宙吊り状態の予期的未来
ごく普通の人々が高度な文学と接触すると、捨て去った元の文化と、知識も教養もある文化という、ふたつの文化の間で行き場を失う。
「知識も教養もある文化」のほうにコミットメントしても、ただのサラリーマンが未来である彼らにとっては、より大きな宙吊り状態に移行するだけである。
⚪︎ 教養知の無用化
全共闘学生は「暴力学生」とされ、教養エリートを中核とする大学文化の解体によってレジャーランド大学への敷石が敷かれてしまった。
大学紛争後の大学生たちはこう悟った。「特権的教養主義は、大衆的サラリーマンが未来である我々が収益を見込んで投資する文化資本ではない。」、と。
⚪︎ 経営官僚と政策インテリ
教養知と異なった専門知や技術知の台頭とともに、マルクス主義を代表とする全体的社会変革のための社会哲学思想から専門技術学による段階的積み上げによる社会改良を目指す社会工学思想への転換、「思想インテリ」から「実務インテリ」、「抵抗型」知識人から「設計型」知識人への転換がいわれるようになる。エコノミスト、システム・アナリスト、経営官僚の時代だ。
⚪︎ 農村性の消滅
教養主義の輝きは、前章でみたように、農村と都会の、そして西欧と日本の文化格差をもとにしていた。しかし、70年代以降は、農村と都市部の生活様式にほとんど格差がなくなってくる。また、日本と西洋の文化格差も消滅する。
⚪︎ 教養主義の衰退
大学生の書籍購入の実質的シェアは、30年経過して、8分の1以下に縮小してしまった。ポスト全共闘世代の大学生にとっては、教養主義に代表される知識人文化は、もはや執着の対象ではなくなった。
⚪︎ ビートたけし
教養主義派排除統一戦線の影のイデオローグは、ビートたけしではなかったろうか、と思う。石原慎太郎の知性の内乱、教養主義への反乱を最終的に完成したのがビートたけしではないか、と。
たけしが漫才師と自己規定しながら知識人の言説を茶化せば茶化すほど、反教養主義派統一戦線のイデオローグとして機能してしまう。
レジャーランド大学生は、プチ教養主義を解体するためにビートたけしの知識人殺しを歓迎した。
1989年調査で男子大学生が選んだ日本を代表する文化人の1位は夏目漱石、2位がビートたけしである。
⚪︎ 新中間大衆文化
新中間大衆文化とは、ホワイトカラーだけでなくブルーカラー、自営層、農民までを含んだ中間意識を総称したものである。
中位のものを最高であってこの上なく価値あるものと評価するが、これは、多数者が住みついている場所であり、多数者がこの場所に住みつくやり方である。
凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとする。
「サラリーマン」文化の蔓延と覇権こそ教養主義の終わりをもたらした最大の社会構造と文化である。
⚪︎ キョウヨウ
現代の大学生は人間形成の手段として従来の人文的教養ではなく、友人との交際を選ぶ傾向が強く、同時にかつての文学書と思想書を通じての人文的教養概念が解体している。
読書を中心に人間形成を考えた昔の学生は、いってみれば漢字の「教養」に生きたが、一般常識や一般経験を人間形成の道筋としている今の学生は、ライトな教養であるがゆえに、片仮名の「キョウヨウ」に生きていることになる。
教養主義が大衆文化との差異化主義であるとすれば、キョウヨウ主義は大衆文化への同化主義である。
⚪︎ 適応・超越・自省
社会学者の井上俊は文化の作用として「適応」「超越」「自省」の3つを挙げている。
・適応:人間の環境への適合を助け、日常生活の欲求充足をはかること。実用主義。
・超越:効率や打算、妥協などの実用性を超える働き。理想主義。
・自省:自らの妥当性や正統性を疑う作用。自問や自省の働き。
井上のいう文化の3つの作用は、文化の学習である教養についてもいえる。人間形成には、現実に距離をとる超越性や自省の景気が不可欠であるが、適応文化である「キョウヨウ」にはそうした景気がみえにくい。
教養主義が敗北し、終焉し、同時に教養の輪郭が失われているが、そうであればこそ、いまこそ、教養とはなにかをことのはじめから考えるチャンスがやってきたのだともいえる。
教養の培われる場としての対面的人間関係は、これからの教養を考えるうえで大事にしたい視点である。教養教育を含めて新しい時代の教養を考えることは、人間における矜持と高貴さ、文化における自省と超越機能の回復の道の探索である。
竹内 洋
竹内洋(たけうち・よう)1942年新潟県生まれ。京都大学教育学部卒業。保険会社勤務後、京都大学大学院教育学研究科進学、同大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。京都大学大学院教授等を歴任して、関西大学、京都大学名誉教授。主な著書に、『学歴貴族の栄光と挫折』『立志・苦学・出世』『パブリック・スクール』『日本のメリトクラシー』『大学という病』『教養主義の没落』などがある。