「エンタメ」の夜明け 〜ディズニーランドが日本に来た日〜

 当たる、ということこそ、私たちの職業の唯一の掟(おきて)である。大衆の拍手喝采が、この芸術のただひとつの目的なのだ。
 〜 ルイ・ジューヴェ 〜

まえがき

 本書は、日米3人のプロデューサーにまつわる、不思議な因縁の物語。
小谷正一
 日本プロ野球パシフィック・リーグの創設に深く関わり、日本最初の民間ラジオを興し、大阪万博でいくつかのパピリオンのプロデュースを手がけた。
堀貞一郎
 電通時代の小谷の部下。『シャボン玉ホリデー』『11PM』の立ち上げた。後に、ディズニーランドを浦安に呼ぶ立役者となった。
ウォルター・イライアス・ディズニー
 世界最初の長編アニメ『白雪姫』を発表。1955年、カリフォルニア州アナハイムに世界最初のテーマパーク『ディズニーランド』を建設し、テーマ・パークビジネスの父となった。

史上最大のプレゼン

 1974年12月1日、三井・三菱という日本を代表するふたつの企業グループの招きで、ディズニーの最高経営会議のメンバーが、この日全員日本に降り立った。

三菱地所のプラン

 富士山麓に、富士スピードウェイを中心とした300万坪の土地を所有しており、そこに、東宝と共同でディズニーランドを造ろうという考えだった。

日本創造企画

 三菱地所・三菱商事・東宝の3社の出資を得て設立。レジャーセンターやショッピングセンターの企画。当時の日本映画が斜陽化の中、リゾート・ビジネスに活路を見出そうとしていた。
 富士山麓プランは、日本のモータリゼーションの急速な拡大を前提に作られたものであった。しかし、1973年に起こった第一次オイルショックが、その前提を大きく揺るがした。三菱側のプレゼンテーションは、まったく気勢の上がらぬものだった。

三井物産のプラン

 当初は、後発の三井の誘致計画が実現する可能性は、限りなくゼロに近かった。

オリエンタルランド

 三井不動産、京成電鉄などが浦安沖埋立てなどの為に設立した会社。

三井側のプレゼンテーション

 指揮を執ったのは、45歳の堀貞一郎だった。
 美声の持ち主で、ホーンテッドマンションの入り口の天井が伸びる部屋で「部屋が伸びているのか、それとも諸君が縮んでいるのか」という名調子が、今でも毎日天井から響いている。
 「ロサンゼルスに送る計画書は革の装幀にしよう。見た目にインパクトがあれば、粗末にしないで目を通してくれるはずだ。」
 堀たちは、三菱側のプランの弱点は都心からの距離にある、と睨んでいた。東京駅から浦安まではわずか12キロだが、富士スピードウェイまでは100キロある、ことを主張。
 午後から、ディズニー幹部を浦安に案内する為、昼食をバスの中で出す。応接室のような豪華なバスを用意し、鮮やかな振袖姿のコンパニオンが二人乗っており飲み物の注文を取る。三井物産ロサンゼルス支店から、ディズニーの幹部が昼食やパーティーの席で日頃どんな食前酒を飲んでいるのかについて、事前に詳細なリポートを取っていた。
 食事は、ステーキランチだった。日本に来て4日目、和食にもそろそろ飽きがきただろうと踏んで、最上級の牛肉を手配した。
 プレゼンでは、浦安の地元民全体が招致に乗り気であることを示す必要があった。バスが市庁前に停まると、市長が一行を庁舎に招き入れて、挨拶文を読み上げた。挨拶が終わると、子供たちがバスを取り囲み、アメリカの国旗の小旗を振っていた。
 6人のディズニー経営陣を3機のヘリに分乗させ、東京の上空から浦安まで案内した。少しでも予定地がきれいに見えるように、オリエンタルランドの社員は数日前から総出で予定地の海岸のゴミを拾っていた。すべては、堀が仕組んだ演出であった。
 天下分け目のプレゼンテーションは、こうして1日で決着がついた。

ディズニーを呼んだ男

 浦安にディズニーランドを招く立役者となった堀貞一郎とはどんな人物なのか?鮮やかなプレゼンテーション技術をどのように会得したのか?

堀貞一郎

 日本映画を残らず見まくる映画少年で、映画製作者に憧れていた。早稲田大学に進学し、NHKでアルバイトを始め、「NHKがテレビジョンの放送を始めようとしているらしい」という噂を耳にした。バイト先の先輩から「日本電報通信社(のちの電通)という会社が、テレビジョン放送局の開設を企画しているらしい」と聞き、同社の就職試験を受けた。最終の社長面接で、「テレビジョンの仕事をしたい」と言い、社長の吉田秀雄は、「変わったやつだあ」と苦笑いした。
 24歳の堀は、学生時代に合唱で鍛えた美声と、東京生まれの正確な標準語で、森下仁丹やヤンマーディーゼルといった大阪の企業のテレビ広告のために、声の出演者となっていた。

テレビジョン放送の開始

 実のところ吉田秀雄は、堀が就職試験を受けていた時点では、テレビジョン放送に否定的であった。
 一方、読売グループ総帥、正力松太郎の考えは違った。
 「日本の共産化を防ぐには、無知と恐怖を取り除くテレビジョン放送が不可欠だ。」と考え、NHKに先んじてテレビジョン放送の予備免許を取得した。
 しかし、局舎や機材を一から揃えなければならない正力が準備に手間取っている間に、ラジオで実績のあったNHKが1953年2月1日、テレビジョン放送をスタートさせた。
 正力の日本テレビは、それに遅れること半年の、8月28日に開局。頭ひとつの差で「日本最初のテレビジョン放送」の名誉を逃した。

街頭テレビジョン

 正力は、1台17万円(今の物価で約500万円)のテレビ受像機をアメリカから自費で100台購入、都内の人通りの多い広場に設置した。正力は、街頭テレビジョンの前に大衆を集めることで、広告メディアとしての価値をスポンサーに認めさせることに成功した。

当時のCM事情

 吉田秀雄は、民間ラジオ放送スタートの直前、日本電報通信社の銀座本社にスポンサーを集め、CM研究会を開いた。
 初期のテレビジョンの受像機の解像能力では、商品を美しく見せることなど到底できず、簡単なアニメーションとCMソングで商品を印象付けるのが精一杯だった。

三木鶏郎の仕事について

 本名:繁田裕司(しげたひろし)。東京帝国大学(後の東大)法学部卒。作曲家。
 NHKラジオで始まった『日曜娯楽版』という番組で、コミックソングを自作自演し、絶大な人気を集めた。「明るいナショナル」の松下電器(現、パナソニック)、「クシャミ3回ルル3錠」の三共(現、第一三共ヘルスケア株式会社)など、歌い継がれるCMソングを残す。

堀貞一郎とテレビCM

 自分が担当していた「牛乳石鹸」のイメージをオシャレで全国的なものに変えたいと思っていた。「牛乳石鹸」の宮崎寅四郎社長が飲みに行くバーを秘書から訊き出し、そのバーで夜な夜な待ち構えた。そんな堀の泥臭い売り込みが功を奏し、「牛乳石鹸」は『シャボン玉ホリデー』の提供にGOサインを出した。「牛乳石鹸」は工場の生産が追いつかないほど売れ始めた。
 宮崎社長は、「英語でホリデーは祭日。日曜日はホリデーではないが、堀貞(ホリテイ)一郎君なので、ホリデーにする。」と。

電通プランニングセンター

 電通社長・吉田秀雄は腹心の部下である小谷正一に電通プランニングセンターの設立を命じる。
岡田芳郎:電通社員で自らも詞を書き、バラエティ番組の構成を会社公認で手伝っていた。
山川浩二:三木鶏郎と組んで数々のヒットCMを作っていた。
 電通プランニングセンターには、堀貞一郎らのとびっきりユニークな面々が集められ、マーケティング、メディア、クリエイティブの3つの部門で構成された。

朝の局会

 毎週1回、朝開かれた。
 山川は「小谷さんの場合、会議なんてものではなく、みんなに一人ずつ勝手なことを言わせる。昨日、こんな映画を観た、ここが面白かったとか、小谷さんはそれを聞いて、それとこれとを繋げるとひとつの傾向が出るなあ、みたいなことを言う。世の中の全く違う3つの現象を持ってきて串刺しにするとひとつのテーマが生まれる。という方法論を、小谷さんから教わった。」

パッカードに乗った次郎長

 堀貞一郎の師匠、小谷正一の人生を辿ってみる。
 小谷正一は、大正元年(1912年)生まれ。堀貞一郎と同じ早稲田大学国文科卒業。1936年、毎日新聞に入社し、事業部に配属さる。

小谷正一のエピソード

エピソード1

 フランスからパントマイムの第一人者マルセル・マルソーを招き、公演を行った。

 自分の事務所を持っていたが、部屋も建物も汚くみすぼらしかった。公演をいい加減にやられては困ると考え、NHKの古垣鉄郎会長を口説き、会長室を2時間借りた。羽田に着いたマルソーは、小谷がさし向けた会長専用車のロールスロイスで、まっすぐ内幸町のNHKに連れて行かれた。中庭に噴水のある大きなNHKの会長室で、小谷はにこやかにマルソーを迎えた。
  小谷の言葉:「ちょっとぐらいハッタリかましたれ

 小谷は、夫に同伴して日本にやって来たマルソー夫人に一人の部下をはりつけ、銀座や浅草での買い物に残らず同行させた。「女性が買い物をするとき、二つのうちどちらにしようか迷う時が必ずある。迷って捨てた方を全部記録してこい。」小谷は、マルソー夫妻が羽田を発つ時、夫人が迷って買わなかった方の商品をそっくりまとめて箱に入れ、プレゼントした。女性が最後まで迷ったというのは、その商品を気に入った証拠である。中には、あちらを買えば良かった、と後悔したものもあったろう。小谷はそれを全部買って贈ったのだ。夫人が大喜びしたことは言うまでもない。
 マルソーは「コタニの招きなら、いつでも日本に来る」と言い残して日本を去った。
 小谷のやり方は、ディズニー経営陣の心を掴んだ堀のプレゼンテーションに少なからぬ影響を与えていたことは間違いない。

エピソード2

 深夜、ライバル局より遅くまで放送を続けると、その番組を聞いた視聴者はそのまま眠りにつき、翌朝起きても同じ周波数のラジオを聴くので、聴取者を増やせる、というアメリカのラジオ界のノウハウを聞きつけ、NHKよりも30分遅くまで放送することを決めた。ラジオがNHK1局しかなかった時代には競争がなかったから、聴取率は奪い合うものという概念もなかった。小谷が日本の聴取率競争の導火線に火をつけた。

黒い蝶

 「今、一番難しいことって、何やろう。」「鉄のカーテンの向こうから何かを引っ張ってくることやな。」

ソ連のバイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフ

 「もし、オイストラフを日本に呼ぶことができたら、アメリカの音楽ファンからも切符の予約が殺到するだろう。」
 小谷正一は、オイストラフの演奏会を新会社で主催しようと考えた。
 日本とソ連の間に国交はない。日ソ関係が最悪の時代であった。政府筋の情報では、対ソ強硬主義の吉田内閣が続く間はまず不可能とのことだった。
 小谷は、日ソ漁業交渉の通訳者に頼み、オイストラフに直談判したうえに、来日に必要なソビエト文化情報局の了解まで取り付けた。日本政府の許可が出たのは、吉田内閣が崩壊した日だった。

黒い蝶

 こうしたオイストラフ招聘の経緯を、井上靖は、小谷正一をモデルとして小説化した。初の書き下ろし長編小説『黒い蝶』がそれである。

小谷の才能

 吉田秀雄が小谷正一のために「プランニングセンター」を立ち上げたのは、管理能力を問われるポストでは、小谷の才能を活かせぬと見抜いてのことだった。小谷は管理能力の高い人ではなかった。
 若者から何かを吸収しようという意欲の方が強い、生涯現役クリエイターだった。ただ、若者を誉めてその気にさせることにかけては天下一品だった。
 和田誠が『麻雀放浪記』で映画初監督をした時、小谷から「見たけど、すごく良かったよ」と。和田が「賛否両論なんですよ」と言うと、小谷は「それは、うんと好きかちょっと好きかの違いだろ

世界の国からこんにちは

週刊少年マンガ誌

 1960年代初め、日本で急速に影響力を増したものに、週刊少年マンガ誌がある。講談社と小学館という日本を代表する2大出版社が『少年マガジン』『少年サンデー』といを同時に創刊した。
 小谷正一のプランニングセンターに、国産初の板ガムのメーカー、ハリスから、チューインガム売り上げ増加のためのキャンペーンの依頼が舞い込んだ。この依頼に対し、題名に『ハリス』という社名を入れ、登場人物の一人がいつもガムを噛んでいる設定のマンガを週刊少年マンガ誌に連載することを提案したのが、小谷の部下の堀貞一郎であった。
 新しい広告の形が、色々なところで生まれようとしていた。

日本のデザイン

 1964年10月、日本は東京オリンピックで沸き返った。東京オリンピックで日本初のピクトグラム(単純な絵で非常口やトイレなどを示すシンボルマーク)を導入した。
 また、スタートダッシュの瞬間を捉えたポスターが、海外で高く評価され、日本のデザインは一躍世界のトップレベルに列せられた。それまで図案家と呼ばれていたグラフィック・デザイナーが、正当な名称と社会的地位を得た。

日本のCMとテレビ業界

 日本のCM界は、高度成長の真っ只中、熱い時代に突入し、テレビの影響力はピークに達していた。
 交通事故の死者数を減らすためのキャンペーンを考えて欲しい、との依頼が警視庁から電通に舞い込んだ。堀貞一郎は、「手をあげて 横断歩道を 渡ろうよ」という七五調の標語を考えだして町中に掲出した。その標語をCMソングの手法で歌にして、テープとフリップを在京キー局全部に配り、空いているスポット枠に突っ込んでもらい、社会に浸透していった。
 小谷正一の片腕だった藤田潔は、日本初の国産アニメ、手塚治虫の『鉄腕アトム』の全米放送で世間をアッと言わせた。『アストロ・ボーイ』の題名で放送された。
 アメリカで深夜の生ワイド番組の収録を見学した藤田潔は、日本テレビの井原高忠に語った。井原は、日本人の生活時間が夜型に移行し始めたことを看破した。そうして『11PM』が始まった。

万博博覧会

 小谷の部下の吉田真三は小谷とともに、1967年、モントリオールで開かれた万国博覧会を視察に行った。
 小谷は、サンマリノ寺院のベイタム像にスポットライトの照明を当てただけで博覧会屈指の人気を呼んでいた、サンマリノ共和国の展示に注目した。「クズをガサガサと置いたって、みんな、感動しない。呼び物をひとつだけ作って、パチっと金を使って見せればいいんだ。

大阪万博

 日本では大阪万博を契機として、それまでの年寄りの大御所に回されがちだったデザインやイベントの仕切りの仕事が、30代前半の若い世代に回されるようになり、クリエイティブの世界で世代交代が急速に進んだ。
 万博は日本人の生活にさまざまな影響をおよぼすことになった。
 ケンタッキー・フライドチキンの日本上陸第1号店が造られたのも、万博会場内であった。
 藤田田は、そうしたオープンな店の作り方に興味を持ち『マクドナルド』の銀座1号店を出店した。
 アメリカ館の4つの飲食店を担当した九州の外食産業『ロイヤル』は、セントラルキッチンで下処理した食材をトラックで万博会場までピストン輸送し、他のレストランが予想外の来客数に食材不足に陥る中、順調な運営を続けた。そのノウハウを活かし、『ロイヤルホスト』1号店を北九州に出店した。
 こうして、日本最初のファストフードとファミリーレストランのチェーンが、万博の翌年に産声を上げた。
 万博は、日本の広告界がアイデアやクリエイティブにもきちんと金を払うようになる、ターニングポイントとなった。
 小谷は、万博の準備のために視察に行ったディズニーランドに魅せられていた。そして万博を境に、それから後半生、口癖のように「ディズニーランドを日本に持ってこれたら・・」と言うようになる。

祭りのあとさき

 和太鼓グループ『鬼太鼓座(おんでこざ)』の主宰者・田耕(でんたがやす)は、万博の直後、「インターナショナルなものを作るには、まず、真にナショナルでなければならない」と唱えた。小谷は田の支援として、自分のオフィスの一角を事務所として貸し与えている。
 万博の次はディズニーランドーーーそれが小谷と堀の、無言の合言葉となっていた。
 「21世紀の最初の1日って、どんなんやろう。残りの人生と引き換えに、その1日だけでいいから、見てみたいと思うんねん」

ディズニーランド日本招致

 1972年、堀貞一郎は、三井不動産の関連会社のオリエンタルランドに常務として出向する。オリエンタルランドは、浦安の公有水面263万坪の埋め立てのために、2億5000万円の資本金で設立された会社である。
 京成電鉄社長の川崎千春は、ディズニーランドの日本招致を本気で考えるようになる。浦安にディズニーランドを造る。それが川崎の生涯を通しての夢となった。
 三井不動産の江戸英雄は、漁業補償問題の専門家として、ひとりの男をオリエンタルランドに送り込んでいる。後に同社の社長となり、東京ディズニーランド実現の最大の功労者となる、高橋正知である。高橋は江戸からこう言われた。「君のオツムはあまり良い方とは思わないが、酒は強い。だから、君に頼むのだ。」交渉に当たって、高橋は毎晩、新富町や日本橋の料亭に漁民を招いて飲みまくった。最初の1ヶ月の酒代が80万円(今の1000万円)にのぼった。川崎は金額には目もくれなかった。最初に言った「君に任せる」という言葉は本当だった。江戸英雄と川崎千春は、2年はかかると読んでいた漁業権放棄の交渉を半年でまとめ上げた。
 高橋のためならと、先祖代々守って来た漁場を放棄してくれた漁民1800人ひとりひとりの家を回り、高橋はこう言った。「あんたの海をいたずらに犠牲にはしない。ここに必ず立派な遊園地を造ってみせる」

ウォルト・ディズニー

 1928年に世界初のトーキー・アニメ『蒸気船ウィリー』を、1932年に世界初のカラー・アニメ『花と木』を、1937年に世界初の長編アニメ『白雪姫』を発表した。

ディズニーランド

 ロサンゼルスからほど近いアナハイムの160エーカー(19万6000坪)のオレンジ畑の購入を決める。
 画家のハーブ・ライマンがウォルトのオフィスに呼び出された。ハーブは、ウォルトが言葉で描く遊園地のイメージを、ひたすら絵にしてゆく作業に没頭した。おかげで彼は、ディズニーランドの最初の基本図面を起こした画家という栄誉に浴する。
 1995年7月17日の日曜日に開演した。最初の1年間の入場者は、当初の予想を大きく上回る400万人に達した。

世界のアミューズメント施設の年間入場者数ベスト5(2002年)

  1. マジックキングダム(フロリダ)1400万人
  2. 東京ディズニーランド(日本)1300万人
  3. ディズニーランド(ロサンゼルス)1270万人
  4. 東京ディズニーシー(日本)1200万人
  5. ディズニーランド(パリ)1030万人

ディズニーランド成功の2つの理由

徹底した客目線の思想

 水飲み場は、反対を向いた二つのノズルがつけられていた。「カラカラに乾いた喉を水で潤すときの一番いい表情を親子で共有できるなんて、最大の娯楽じゃないですか。」
 ピノキオの鼻の先端を丸くさせた。「ピノキオの鼻が尖っていたら、子供にとって危険じゃないか
 客がどう思うか、どう見るか、どう行動するかを考え抜いた演出の工夫があちこちになされている。これがディズニーランド成功の第一の要因だ。

エンタテイメントの基本は模倣である

 ディズニーランドのアトラクションは1から100までがベタベタ、ご存じモノだ。
 理解という余分なストレスを最小限に抑え込むため、すべての子供が自分の目で見聞きして記憶している、既知の世界の再現であることを見抜いており、パークのアトラクションも、ごっこ遊びの延長線で造っている。
 シェイクスピアは、生涯で37本書いた戯曲のうち、オリジナルは『真夏の夜の夢』『恋の骨折り損』『ウィンザーの陽気な女房たち』『テンペスト』の4作だけ。残り33作は、すべてギリシャやローマの古典劇の焼き直しである。
 エンタテイメントは、先の時代を生きたクリエーターたちとの愛と信頼に基づく模倣の積み重ねであることをディズニーは明確に示した。

白いキャンパス

 当初、ディズニーランドには巨大な地下が掘られ、そこにディスコやラウンジが設けられる計画だったが、予算圧縮のため、その計画は流れた。
 堀貞一郎は、総合プロデューサーという職責上、アトラクションにスポンサーをつける交渉役まで任されていた。サントリー、資生堂、森永製菓など、大手有力企業に逃げられ、苦しい立ち上がりだったが、最終的には二十数社が決まり、都合300億円をかき集めることに成功した。
 日本企業は、若者向けの娯楽施設も金をかければビッグ・ビジネスになることをディズニーランドから学んだ。おかげで日本中にテーマパークやリゾートが建設された。ディズニーランドは、バブル期の半ば浮かれた店造り・施設造りの最大のお手本となった。が、もとより日本企業がディズニーランドほど金も知恵もかけられるはずもなく、中途半端なものを造ったおかげで、10年後にはほとんどが消える結果となった。

厳島神社

 小谷正一が口癖のように周囲に繰り返し語っていた話
 「日本三景の松島と天の橋立は確かにきれいやけど自然現象でしょう。宮島は違う。あんな海の中へ鳥居がニョキニョキ生えてくるはずはない。会議で誰かが、海の神さん迎えるのやったら海の中に鳥居立てよやないかと言い出したに違いない。アホウ、そんなことしたら潮の満ち引きで手間ヒマかかって話にならん、こてんぱんにやっつけられたと思うんやで。けど、それはおもろい!いこやないか言うやつががきっとおるはずでしょう。そこで宮島が出来上がった。こいつのおかげで旅館もタクシーもみんなやっとるのやから、これ考えた人だれですかと、あちこち僕聞いてまわったけど、誰も知らんのや。」

著者

馬場 康夫
ばばやすお●1954年 東京都に生まれる。大学卒業後、同級生たちとホイチョイ・プロダクションズを設立。1981年に「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)で連載『気まぐれコンセプト』を開始。以降、『カノッサの屈辱』、『TVブックメーカー』などのテレビ番組の企画や、『東京いい店やれる店』(1994年)などの書籍企画に携わる。1987年の『私をスキーに連れてって』で映画監督デビュー。代表作に『彼女が水着にきがえたら』(1989年)、『波の数だけ抱きしめて』(1991年)、『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』(2007年)などがある。

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